Now fading. Now loading.

zzz

風に翻る蝶が、まるで点滅しているように見えることがある。

物としての蝶と霊としての蝶。点滅はその二つの状態をリズミカルに行き来きしているようでもある。私の友人にはダンサーが多いが、彼らの踊りに同様のことを想起する。風に舞うことと、音に乗ること。それらには流体に身を任せるといった共通点がある。不可視な上昇気流に、意志と身体を反映させて高く舞うような。霊というのは魂の運動であり、身体はその媒体なのかもしれない。

蝶はしばしば、魂や死を象徴する霊的なモチーフとして扱われている。しかし一体何故、蝶はそのようなイメージとして捉えられるのだろうか。蝶が蛹の時に自らの細胞をドロドロに死滅させ、身体を新たに作り変えること。幼虫が蛹化する時に枝や葉にぶら下がるような姿勢を取ること。まるで天と地を反転させたような、空へと舞う準備をする儀式的な行為。これらを経て、地から空へと身体のフィールドを移す蝶に、霊的なイメージが宿るからではないだろうか。

私たちは空を飛ぶことはできない。人が亡くなることを天に昇るとする解釈があるが、これは身体という物質から魂が放たれるということだろう。生物の物としての存在と魂としての存在。これらは表裏一体であり、どちらか一方ではこの世界を生きることは不可能である。しかし私たちが眠りに就く時、身体の意識が薄れて行く中で、霊としての意識が読み込まれていくような感覚がある。

胡蝶の夢という話がある。蝶になって悠々と空を舞う自分と、人としての自分。それぞれの世界があるが、どちらが夢なのかはわからない。このような話であるが、自分が自分であることに変わりはなく、どちらかになった時点でもう一つの世界は存在しなくなってしまう。それが寝て起きるということだと思う。それを繰り返している。夢見る身体は蛹のようにも思える。

もし二つの世界からどちらかを、自由に選択できるとしたらどうするだろうか。元の世界の入り口と別の世界の出口の間をひらひらと飛んでいたい。

この夢から醒めるまでは。