方向性について

山浦千夏

新卒の就職活動ではよくこう聞かれるという。「困難を乗り越えた経験はありますか?」と。これは、困難を「どのように」乗り越えたかを聞いている。つまり、困難に出くわしたときにどんな工夫をしたか答えることを求められている。このHOWに対する答えとして私の心に浮かぶのは、寝ること。これに尽きる。困ったときは、とりあえず寝る。これを座右の銘のようにして生きてきたつもりでいる。もちろんこれは就職活動での答えとしては不適切だ。寝ることでは何一つ解決しない。何も進まない。乗り越えてないじゃないかということになる。確かにこの習慣は褒められたことではないが、逆にこれ以外に何ができただろうとも思うのである。

何もないものに向かってしまうことがある。「とりあえず寝る」というやり口もその一つだ。寝るという態勢をとることで、解決に向かうでもなく、破壊に向かうのでもなく、一旦何もないところに身を置いてみる。私はこれを日々意識的に行っている。たとえばLINEの連絡が怖いときは、ひとまずLINEは開かずにTwitterを開く。いずれLINEも見ることになるのだが、情報が錯綜するTwitterを見て、頭の中を空っぽにする。私はアイドルを無心で見たりする。なぜ私はアイドルを欲するのか。こんなことを言うと怒られるかもしれないが、そこに虚空がある気がするから。その虚空を感じながら私はボーっとする。このようなことが何にもならないとわかっていても、不思議と虚空に向かってしまうのだ。グループBの展覧会「摩訶神隠し」では、そのような方向性について考えた。

大島有香子氏の《そうぞうする理想》は、かつて駅で見つけたが何もしてあげられなかったある捨て犬に向けた理想が提示されている。「猫」と書かれた段ボールの中に、青空と草原が描かれていて、赤色でキラキラした犬が眠っている。現実が「猫」と書かれた段ボールなら、その中身は空想の世界である。実際のところ、犬がその後どうなったかはわかっておらず、箱の中の景色は作者が思い描いたものだ。見方によってはこれを自己完結だと言うこともできるのかもしれないが、だとしても、あの時犬を救うべきだった、とか、一匹でも多くの犬を救うべきだ、とか、そんなことを誰が言えよう。世界は複雑で、私たちは日々多くのことに目をつぶりながら生きている。現実はとても直視できるものではない。見るに耐えないものにモザイクをかけ、箱の中に空想の世界をつくることは、受け入れがたい現実を心から締め出してしまわないための一つの向き合い方ではないか。その犬がいるどこかわからない場所が、少しでもいい場所であってほしいと願いながら想像/創造することは、お墓にお菓子や花をお供えすることと意図するものが共通しているように思う。だとしたら、このような想像なしに弔いは始まらないのではないか。私はこの作品から、虚構に向かうということは、現実を受け付けないということとは別物なのだと考えた。

木谷優太《妹と娘》は、「子育て」した妹の写真と、リボーンドールとままごとセットを一緒に展示する。子育て同然に面倒を見てきた妹に手がかからなくなったとき、作者は「子育て」というロールプレイングに取り組んできたのだと自覚したという。ステートメントからは、妹の成長に寂しさを感じつつも、いつか自身の子供を授かったとき、また「子育て」というロールプレイングを引き受けようという未来へ向かう意思が感じられるが、勝手ながら作品からは、そう簡単にはいかなさそうな予感がしてしまった。中心に飾られているのは作者とリボーンドールを抱き抱えた妹が並んで立つ家族写真のような写真である。長時間露光で撮られていることにより、被写体はぼやけていて、撮影中じっとしてはいてくれない妹は少し透けている。この写真の周りを、まだ妹が幼い時に撮ったいくつもの写真が囲む。その下にはままごとセットとリボーンドールが置かれている。リボーンドールは食事中と思わしく、テーブルに食器が並べてあり、その食器の横に、長時間露光で撮った妹の写真がタブレットに映しだされている。昔撮った妹の写真たちを過去、リボーンドールを未来とするならば、中心に飾られる家族写真風の写真とタブレットに映される写真は、過去と未来の間といったところだろうか。だが写真は、撮った瞬間その時間を過去にしてしまう。だとすると、長時間露光であえて時間をかけて撮っているのは、気づかぬうちに過ぎていってしまう時間への抵抗ではないか。時間は勝手に進み、強制的に未知なる未来に向かわせられる。体は成長し、老いていき、科学は発展する。その一方で、過去は意識を強く引っ張る。後悔や、思い出といった形で。作者は、親になる前から親の役目を負い、そして早くもその役目を終えようとしているゆえに、時間のバグのようなものが起こっているのかもしれないと思った。普通の親なら、子を産み、育て、子は成熟し、完全には子離れできずに老後を過ごすのかもしれないが、作者は早くに子育てをし、そしてこれから子供を授かる可能性がある。未知の未来はまだまだたくさん待っている。長時間露光で撮影された写真は、過去に引っ張られながらも未来が迫るなかでのあそびの時間に思えた。

小林毅大《We don’t talk much or nothing.》は、作者とその母親の関係を丁寧に結びなおそうとする試みが、「話さない」ということによって行われている。床に置かれたタブレットには、二人が向かい合わせで座り、それぞれがお互いを携帯で撮った動画が交互に映される。その手前には二つの座布団が敷かれ、座布団と座布団の間には母子手帳が置いてある。約20分間の映像で、二人とも何も喋らず座っているだけなので、観客である私もまた20分間ほど沈黙の時間を過ごしたわけである。ただ座り、見てはいるが、聞きも話しもしない時間だった。私はただただ母と子を眺めた。ここでの沈黙は、無視するとかそういうこととは違うはずだ。無視は攻撃的だが、これは攻撃するためのものではない。攻撃しないために必要なものなのだと思う。またこれは、一生しゃべらないということも意味しない。母と喋りたくないということではなく、むしろいつか母と対話するための、傷つけも傷つかれもせずに対話するための試みなのではないか。人と人を結び付けているものは、そんなに強固なものではない。たとえ親子であったとしても。それは無造作に置かれている母子手帳だったりするのかもしれない。だからこそ、関係を破綻させないためには工夫が必要で、作者はそのために「話さない」ということを試してみたのではないか。人と人が関わるとき、常に傷つけ合う危険を帯びている。そのなかで、何かを「しない」という選択肢があるのだということを、この作品は示しているように思えた。

田中愛理《とある存在/混合する境界》は、他人との間にある透明な層を意識化させる。作者が透明な板に塗られたクリームをなめる映像画面が入り口側に向かって置かれ、作者ではない他者が同様の板に塗られた色のついたジャムをなめる映像が背合わせに置かれる。そしてそれぞれの手前に実際になめられた板がたてられている。クリームないしジャムがなめられた部分が透けて、その奥の映像が見えるようになっている。印象的だったのは、それぞれ相手に向かってなめているわけではなく、実際二人はカメラに向かってクリームだったりジャムだったりをなめているだけだ。しかもそれぞれの映像は反対向きに置かれていて、相手との関わりはないに等しい。一方観客の目の前にはなめかけの板が生々しくあり、挑戦的でさえある。観客には何を求めているのだろうか。映像と観客の間になめかけの板があることによって、映像をくっきり見ることは難しい。私はこの板と距離をとりつつ、映像を見ようとした。この作品には何層もの層があって、層と層の間にいくつも空間がある。私と板、板と映像、そしてこちら側とあちら側があることによって、空間は限りなく広がる。映像の中でそれぞれ無言でなめる二者をしり目に、私はこの空間でどう立ち回るかを試されている気がした。

展覧会タイトル「摩訶神隠し」の神隠しとは、消滅に対する想像力である。何かが消えたとき、その消滅が受け入れがたいとき、「ある」と「ない」の境界を神隠しという分かりようのない場所に委ねることで、消滅を受け入れることができるかもしれない。本展示はそのような試みだと捉えた。神隠し先の場所は、誰にもわかりえないしわかる必要もない。むしろわかってしまえば意味がない。わかりえない空間を想像すること、想像させることが、神隠し的な想像力といったところだろうか。

この世界は未知に満ちていて、未知なるものとは他者である。そして他者を受け入れるということは容易ではない。そんな世界で生きていかなければならないわけである。今回の展示では、そのような未知なる他者にどう立ち向かえばいいか、という問いを突きつけられたように思う。この世界で立ち回ることが楽ではないということは、みんな同じはずだ。ならば、それ相応の工夫が必要なのではないか。困難を乗り越えるには工夫が不可欠なのだから。そしてその工夫の仕方とは、徹夜するとか人を巻き込むとか、そういう物理的なものを増やすだけとは限らない。むしろ何もしないこと、ないことを作ることということも、工夫のあり方になるのかもしれない。例えばそれは虚構だったり、余白だったり、しないということだったり、空間を空けたりだとか。

出入り口の前にあるzzz《Now fading. Now loading.》は、蝶が描かれたベッドが吊るされて回転する。それによって私は展示場の中に引き入れられる。そして展示を一通り見た後またこの作品によって抗いようもなく会場から外に出される。この時私は「摩訶神隠し」から戻ったのだ、と戻ってきたことを噛み締めた。いつか戻ってくると信じる限りにおいては、試せることは無限にある。戻ってくるなら私はどこに行ったっていいし何をしたっていい。いずれ戻ってくるうえでの逸脱なら許される。そういう状況を作ることで工夫の仕方は豊かになるのではないか。そしてそれが、最終的には未知なる未来に向かわせてくれるのかもしれない。