境界・共同幻想・「上演の残骸としての展示作品」

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ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校第5期グループBのグループ展「摩訶神隠し」を観た。筆者は、本展を鑑賞する以外の周辺情報として、黒瀬陽平・飴屋法水による講評前半(会場でのプレゼンと質疑)をYouTubeで鑑賞し、講評後半はツイッターのゲンロンオフィシャルアカウントによるツイート内のコメントを見た。また、本展最終日に行われたトークイベントの音声データを聞いている。

キュレーションについて

本展のキュレーションでは、キュレーター2名のバックグラウンドが融合し、その問題意識がぞんぶんに発揮されていた。個々の新芸術校生の作品を観るうえではキュレーターの問題意識は強すぎると言っていいくらいで、筆者もその影響を相対化して個々の作品を観ることができなかったような不安を抱いている。しかし、「コレクティブリーダー課程」がカリキュラムの一環になっていることは、作品を制作する主体がひとりの作家だと言い切れない現在の日本のアートシーンを反映しているのだろう。

マリコムは2018年~2019年のゲンロン批評再生塾第4期聴講生である。バックグラウンドとして演劇にかかわってきた経験がある。また、学生時代は「鬼」に関する研究をおこなったと聞いている。展覧会タイトルとして「神隠し」という古来の想像力に関する言葉が用いられた点は、このようなマリコムの関心を反映しているのかもしれない。

自らもアーティストであるNILは、2018年~2019年のゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校第4期生であり、みずからの発狂体験とそれに伴っておこなわれた家族会議をVR上で追体験させる作品《VR家族会議》を発表している。同作品の音声では、NILの声で発狂時期のNIL自身および彼の両親が演じられ、作品体験の重要な部分を占めていた。さらにVR体験のさいごには、発狂した状態のNILが精神病院に行くかお祓いに行くか、という選択を鑑賞者がおこなう。NILの作品において、みずからの危機的状況を演技として再構築する部分、また体験の解釈に境界を引いて選択肢を選ぶという行為が皮肉的に出現する手法は、今回の展覧会コンセプトにも通奏低音として埋め込まれていると感じる。

筆者は展覧会のステイトメントから二つの言葉を連想した。それは「共同幻想」と「上演」だった。

「共同幻想」について

「共同幻想」は、思想家の吉本隆明が著書『共同幻想論』で提案した概念だ。オウム真理教に関するドキュメンタリー映画『A』のシリーズの監督である森達也が「共同幻想」をウェブ連載のタイトルで使っていたことがあり*1、ステイトメントで飴屋法水の作品やカルトについて触れている点も筆者の連想を強めたのだった。キュレーターのNILはゲンロン批評再生塾第4期の最終論考『共同体幸福論―変態する坂口恭平』で『共同幻想論』を参照していた。そこでは自殺を共同体からの疎外と捉え、坂口恭平の活動と日本の現代アートコレクティブを横断する論考がなされていた。また、現代日本における家族・会社などの近代的な共同体の機能不全と、共同幻想が消滅した状況から、テクノロジーによる新しい共同幻想が現れてきた流れのなかで、オルタナティブな共同体の可能性を探るという内容だった。

今回の展覧会キュレーションは、このようなNILの活動のバリエーションということができるだろう。自殺に限らず「消滅」の体験と「境界」という言葉によってさらに広く社会的な射程を持たせている。一方で、「神隠し」という言葉が全面に出ていることは前近代的なものへの回帰のようにも見えてしまう。吉本の議論を改めて追うことで解像度を高めることが、改めてキュレーター達の目指すものの解釈に役立つかもしれない。

吉本の『共同幻想論』は、個人・個人と個人の対・集団の三つの関係をそれぞれに対応する三つの観念領域間の関係で分析するものだ。「共同幻想」は共同体が持つ観念の領域であり、国家や宗教などがそうだ。個人は「個人幻想」を持ち、個人と個人が出会うところ(特に性的なもの)には「対幻想」がある。

そして、この三つの幻想が相互に侵入/浸蝕するというプロセスに対する視点が、吉本の論の核となる。

『共同幻想論』はまさに「神隠し」の話から始まると言ってもいい。個人の体験として、わたしたちは覚醒とも入眠ともつかない入眠幻覚の状態を共通に持っている。これが村落共同体の生活においては〈憑き〉や〈離魂〉といった観念のもととなるし、現代人であっても既視感などの体験として了解できる境界的な状態の体験と言っていい。詳細な議論は割愛するが、このような境界状態の体験が共同体の関係意識や「憑人」と表現される個人(個人幻想が共同幻想から分離している人間とされる)に投影されていく過程で、共同幻想がシステムとして遊離して自律していくことが吉本の議論である。さらに遊離した共同幻想は自己幻想や対幻想のなかに〈侵入〉してくることが、〈他界〉という観念と個体の死の関係において説明されている。

〈他界〉の問題は個々の人間にとっては、自己幻想か、あるいは〈性〉としての対幻想のなかに繰込まれた共同幻想の問題となってあらわれるほかはない。しかしここに前提がはいる。〈他界〉が想定されるには、かならず幻想的にか生理的にか、あるいは思想的にか〈死〉の関門をとおらなければならないことである。

(吉本[1968:118])

人間はじぶんの〈死〉についても他者の〈死〉についてもとうてい、じぶんのことみたいに切実に、心に構成できないのだ。そしてこの不可能さの根源をたずねれば〈死〉では人間の自己幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想から〈浸蝕〉されるからだという点にもとめられる。ここまできて、わたしたちは人間の〈死〉とはなにかを心的に規定してみせることができる。人間の自己幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想に〈浸蝕〉された状態を〈死〉と呼ぶというふうに。〈死〉の様式が文化空間のひとつの様式となってあらわれるのはそのためである。

(吉本[1968:122])

個体の〈死〉は共同幻想の〈彼岸〉へ投げ出される疎外を意味するにすぎない。現代社会では〈死〉は、大なり小なり自己幻想(または対幻想)自体の消滅を意味するために、共同幻想の〈浸蝕〉は皆無にちかいから、大なり小なり死ねば死にきりという概念が流通するようになる。

(吉本[1968:122])

本展のステイトメントにある「消滅」が扱う事象は、現代の日本では吉本のいう「死ねば死に切り」にだけ回収されたわけでもなく、細分化された共同体意識とともに多孔質の斑ら模様になっていると言える。例えばカルトはそうした穴に染み込むように個人の幻想に侵入するのかもしれない。「救いが失われた世界において、行き場のない想いをカルト化させないために」という文言からは、幻想を共有していない他者を排除して共同体内の幻想を強める構造への警戒が目的論的に含まれているように読める。そこから逃れる方法として、キュレーター達のいう「日本現代美術の想像力との接続」はどのように関係するのだろうか。この点に関しては、次節の後に考えてみたい。

「上演」について

本展のキュレーションで、広義のパフォーマンスや上演という行為と日本現代美術の関係が宙吊りになっているように感じ、そこが気になった。なぜなら、境界状態や「消失」の手触りを集団として扱いながら人間が繰り返している行為のひとつとして、演劇や上演という大きなジャンルがあると考えられるためだ。特に、飴屋法水のパフォーマンス作品が展覧会/作品として言及されていることと、美術の展覧会という形式における造形作品の鑑賞はどのように関係するのだろうか。

エリカ・フィッシャー=リヒテは『パフォーマンスの美学』において、作者と観客の間に起こるオートポイエーシス的フィードバック循環によって境界状態(リミナリティー)が発生することを上演という場の要素として、儀式研究と接続させて総括している。本展のステイトメントにある「我々は消滅に(・・・)強く惹かれることもある」という表現は、ヴィクター・ターナーの儀式研究を引いた以下のような記述に対応させることができるだろう。

社会全体に関しては、儀式は共同体としての集団を改新したり確立したりするための手段とされる。その際ターナーは特に二つのメカニズムが作動していることを見てとる。第一のメカニズムは儀式の最中に生み出される「万人平等の共同体(commuitas)」の瞬間である。これを彼は、個々人を隔てる境界を無効にする共同体の高揚感と説明した。第二のメカニズムはシンボルの特殊な使用法である。シンボルはそれによって凝縮された多義的な意味の担い手として姿を現し、儀式の遂行者や観察者はさまざまな解釈の枠組みを定めることができる。

(リヒテ[2009:258])

一方で、このようなメカニズムが作動するのは上演という場の観客の反応のフィードバックにもとづくものだとされる。

急転の瞬間、つまり、これまで有効だった知覚の秩序がこわされるものの、新たな秩序がまだ打ち立てられていない瞬間、あるいは現前の秩序から再現の秩序へ、もしくはその逆の過渡的な瞬間には、何が起こるのだろうか。そこでは不安定性が生じるのである。不安定な状態は、知覚者を二つの秩序の狭間に、中間性の状態に置く。その状態は、ある秩序から別の秩序への移行を形成する境界領域に位置し、ある意味でリミナルな状態に置かれている。

(リヒテ[2009:218, 219])

知覚と意味生成のプロセスは確かに主観的ではあるのだが、独我論的に理解されるべきではない。それらのプロセスはむしろ積極的にオートポイエーシス的なフィードバック循環に関与する。なぜならこれらのプロセスは、それらが特定の感覚や感情のように知覚可能な形で身体に現れるにせよ、あるいはそこから知覚可能な行動が引き出されるにせよ、他者—俳優や他の観客—に伝えられるからである。

(リヒテ[2009:221])

さらに、このようなパフォーマンスの経験を標榜した未来派のマリネッティなど歴史的アバンギャルドの運動が、政治的共同体の確立と排除の構造を強めるファシズムに結びついたという反省を現在の我々は持っている。また、上演という行為の効果はスポーツ競技などにも認められ、それは他の共同体の排除の構造を強化する。

演劇を儀式あるいは祝祭に変容させようとする要求が、声高にくり返し強調された際には、演劇において共同体の新形式を試みたいという願いが前面にあったからである。注目されたのは儀式や祝祭の、共同体を創設し強化し維持する機能である。これは政治集会にも当てはまる。この領域でも、ある種の政治的共同体の標榜と樹立が目的となっていた。共同体は、まさにそのような活動によって、つまり共同で取り決めた行動を実行し、特殊な体験を経ることによって創られ、強められるべきものとされたのだ。

(リヒテ[2009:285])

競技は競争原理に基づいているため、そこでは競技する側と観る側全員をとりこむ唯一巨大な共同体が形成されることはない。むしろ敵対する共同体同士がつくられる。つまり、そのうち一方の共同体に所属する者は、同時に他方の共同体からは排除されていることになる。それゆえこの共同体同士は、多くはともに体験し、ともに行動することによってだけでなく、感情や行動が相手に対抗していくことによっても生み出され、強化される。

(リヒテ[2009:289])

このような構造的な課題を乗り越えるものとしてマリーナ・アヴラモヴィッチやヨーゼフ・ボイスのパフォーミングアートを扱い、「諸芸術のパフォーマンス的展開」を美学として分析することがリヒテの議論となっている。これと対比する形で、キュレーター達の標榜する展覧会という形式や造形作品を考えてみることが有効かもしれない。

飴屋法水による《 ニシ  ポイ  》は、飴屋本人が展覧会の場に存在していながら、観客の反応との相互作用の拒絶が作家の側で行われているパフォーマンスだった。呼吸していることや瞬きをすることを感じさせない身体のコントロールは、「拒絶を行為する」という意思を連想させた。これは、作為としてパフォーマンスにおける観客と作者のフィードバックを断つことで共同体意識を生み出さないことでありながら、逆に、共同の幻想を持たない個体が排除されたということも同時に現す。一方それらの感覚が生み出されるのは観客の側が作家の身体の存在と作為を観るからである。

偶然、同時期に筆者が鑑賞した作品に、「岡山芸術交流2019『IF THE SNAKE もし蛇が』」に展示されたファビアン・ジロー&ラファエル・シボーニによる《反転資本(1971~4936年)、無人、シーズン2、エピソード2》がある。作品は、旧山下小学校の校舎全体を使った大規模なもので、鑑賞者は入場して1Fの様々な部屋や中庭でオブジェクト群を見た後、2Fの一室で映像作品をみることになる。映像作品は、複雑なSF設定を持ったドラマとなっており、3000年にわたってある出来事が繰り返し演じられているものと設定されている。その映像中で、当の校舎内で行われた上演をみることにより、校舎で見てきたオブジェクト群がドラマの舞台装置、またはその残骸として置かれたものだったことに鑑賞者は気がつく。映像の部屋にはサブモニターや音声収録用のミキサーが置かれ、映像中で行われていることが上演である点が強調されている。人間が上演という行為を繰り返していることがメタ的なテーマとなっており、少し前に鑑賞した展示作品に、直接その場に居合わせてはいない上演の感覚が重ねられるという構造である。

上記の二つの作品鑑賞の体験を、「上演の残骸としての展示作品」の体験と呼んでみる。リヒテの述べているとおり、上演の体験は作者と鑑賞者の同時的な相互作用によってもたらされるのであり、作者との関係性でいえば、造形作品の鑑賞はそのような相互作用をもたらさず、したがって境界状態/リミナリティーは鑑賞の場に発生しない。一方で上演の体験やそれと相似形の社会的な体験を残骸として感じることはできる。このような作品体験が、キュレーター達のいう「神隠しの想像力と現代美術の想像力の接続」のひとつなのかもしれない。

ただし、このような体験の称揚は美術という形式の中では批判的に考えるべきかもしれない。クレメント・グリーンバーグは、ブルジョワジー社会のロマン主義への迎合として絵画が文学に従属したことを批判的に捉え(メディウムの否定と隠喩の達成)、メディウムとの対峙としての抽象美術を純粋な造形芸術の作品として擁護したのだった。先の筆者の体験は、共同体について思考する必要性を求められる社会的な状況を反映し、上演の体験に美術作品を従属させる見方だと言ってよい。現代美術の想像力を重視するならば、造形芸術の側からこのような見方が転覆するような状況もあってしかるべきであろうし、筆者の現時点での鑑賞眼の限界でもあるだろうと思う。

残念ながら展示された全ての作品に言及することはできないが、キュレーションに対する筆者の連想の上で興味深かった作品に以下で言及する。

作品について

・田中愛理《とある存在/混合する境界》

「上演の残骸としての展示作品」として先に筆者が述べた作品達と、共時的に地続きと思えたのが本作品だった。会場通路の真ん中に、反対方向を向いて対になったモニターが置かれ、モニターの前にはそれぞれ透明の板が置かれて、そこに粘着質の素材が付いている。映像では、展示されている板を人物が舐めている映像が流れており、付着している素材はクリームのような食品であると分かり、実際に甘い匂いもする。それぞれのモニターでは別々の人物が別々の方法で板の上のクリームを舐めており、片方は作家自身で、全体に白く塗られたクリームを四角く窓を開けるように舐めとっている。もう片方は作家自身ではなく、板には白をベースに水色や緑色の食材も塗られていて、それらは特定の方向を持たず舐めとられて、作家自身のように四角く素材が除かれることはない。作品のステイトメントでは、作家が学校のクラスの共同体の中で排除された体験と、作家が他者との間に見えている膜について書かれていた。

作家ではない人物が舐めとった跡として置かれた板の表面が面白かった。視覚的に、中西夏之の「絵画場」というコンセプト以降の絵画作品との類似性を感じたのだ。

中西夏之は、ハイ・レッド・センターに所属し戦後日本の前衛芸術運動の一端を担った作家だが、ある時期から絵画作品に回帰した。その際のコンセプトが「絵画場」だったのだが、時期として土方巽の舞踏作品などの舞台美術を担当した後に絵画へ回帰したとされている。身体表現の作家が大地を自明のものとして立つのに対して、絵画の垂直性のもとになる水平性を大地に求めることができないという対比を中西は語っている。

私達が通常使っている躯とは一体何か、と問われた時に、躯以外のさまざまなものの寄せ集めで説明しているが、そうではなく、仮想するもう一つの同じ躯、相似の躯—これを躯’として—この躯’を通常の躯と並べて置き、ソレはコレだと言うことである。そのような躯’の仮定を創造することである。

実は、この躯’が舞い踊るのであり、絵を描くという作業もこの躯’なのだ。あらゆる儀式行為はこの躯’で行うのである。

躯は固い大地に対応し、躯’は地表という水平薄膜に対応する。その対応関係は、また、躯はact(行為)し、躯’はgeste(身振り)すると言うことができる。絵は身振りの作業なのである。この地上、水平膜面は、実際の、あるいは仮定されるあらゆる事象の実験の場であり、推論の検証の場であり、通常、宇宙的と呼んでいる規模のそれであっても、ソコから発し、ソコが受ける反響、反射板(盤)といえよう。この地上はそのような最終場なのである。

机とかテーブル、実験台、プラットホーム、滑走路など、あまりにも多く、水平面は当たり前のようにっ見えるが、それらはすべて、そのような薄膜面を模したのではないだろうか。今一度、その反射盤(板)としての水平膜面を磨くことから始めてみよう。

この地表がゆるやかな起伏をともなう豊かな安堵の感じとは異なり、あまりに研磨された水平面は恐ろしさを備え、その前では立ち竦む。しかし、恐怖をとりのぞきたいと思う感覚を馴致し、水平なるものを見て「おだやかだ」と置き換えて言うこともできる。

(中西[1995])

地上を水平薄膜であると述べる中西のコンセプトは、本作品の作家が体験した共同体内の関係性の切実さと危うさと、他者との間の膜という概念とよく対応している。絵画作品の制作方法として中西は、キャンバスを一点で糸で吊るし、長い筆を両手に持ち、キャンバスの回転をコントロールしながら両手の筆で絵具を置いていくという手法を採用したことがある。このような、描く対象そのものに向かっていない動きは中西の絵画の独特な造形に結びついているように思う。筆の勢いを感じない、ただそこに置かれたような広い色面や、その隙間をただ埋めるように動いた軌跡のような細い線などがそれである。本作品で、「もともと表面全体に塗られていた素材を舌で舐める」という、視覚的な造形を作るために普段使われない不自由な行為に加えて、(作家自身の舐めた表面が、膜に窓を開けるというある意味象徴的な表面に見えるようになってしまっていたのに対して)演者として知人が舐めた方が表面としての豊かさを持っていたのは、作家の意図によってコントロールしきれない上演という場が現れたためではないだろうか。さらに、観客は甘い匂いによって上演の残骸を身体的に感じることができた。

・繭見《こどくたちへ》

服飾をバックグラウンドとして持つ繭見の作品は、様々な素材感を持った布や紐がカオティックなまとまりとして造形されており、造形物として強く目を引くものになっていた。細部を見ると、尖ったヒダのような造形がつくられている部分があり、ステイトメントをみると、作品表面の様々な素材は虫であり、「感情の臓器」に多数の虫たちが寄生し蝕んでいる状態、かつそれを通常の墓と対比して触って過ごせるものとして表現したと説明される。『「感情の臓器」を蝕む病』という見立ては、心を病むことに対する作家の概念化の方法で、それによって身近な人物の死と向き合うことが制作のモチベーションとなっていると推測できる。

興味深かったのは、使われた素材達は一般的に触ったり身につけたりして心地よい素材だと思えなかった点である。ムカデの足のような尖った部分や、スパンコール状の表面を持った素材など、ステイトメントに書かれた「柔らかい手触りと、安心感」という言葉とは全く異なる感覚を受けた。ここに作家としての面白さがあるように思う。

使われた素材が筆者にとって手触りが良さそうと思えない理由は、衣服としてこれらの素材が使われたものは、触り心地という感覚はむしろ重視しておらず、外部に視覚的に何かの発信をするような機能を持ったものだという想像をしてしまうからである。自らがどう見えたいか、を重視しているという言い方をしてもよい。つまり、虫たちは触られることを拒んでいるように見える。作品が本展の中で造形的に強い自律性を持っていたことと奇妙な一致を感じる。ステイトメントに対して言及した吉本隆明の共同幻想論でいえば、造形としての自律は、共同幻想に侵入されていない個人幻想が強く表されていると言うことができそうだし、上演と造形の対比で見れば、接触など自他の境界を曖昧にする上演的な状態を否定しているように受け取れる。

一方で、ステイトメントで寺の娘であるという出自が紹介されているほか、仏教における文化的コードが作品に含まれている点は非常に奇妙な印象を与えることになる。49日という供養の仕組みに対する50日目ということを考えていてそれに合わせて虫は50匹いるという点、また吊るされた造形の下部には蓮が表現されている点について、現地でキュレーターのNILから解説を受けた。コードとして確立した状態の宗教という共同幻想が死者への追悼として所与のものとして扱われるのは、まさしく仏教文化に親しんで馴染んだ寺の娘である作家の出自が影響しているのかもしれないが、科学的な死生観が支配的な現代においては鑑賞の体験に宗教的なコードそのものを含むことは難しいのではないだろうか。遊離して自律した共同幻想と個人幻想がどのようにつながればよいのか、そのプロセスを含めた体験を今後の作品から感じられると嬉しい。

・小林毅大《We don’t talk much or nothing.》

小林は劇団「鉄くずについて」で劇作家としても活動している。演劇ユニット、オフィスマウンテンの山縣太一によるワークショップにも参加経験があると本人から聞くことができた。また、「鉄くずについて」の公演が2019年11月に行われ、筆者は公演とアフタートークを観ることができた。

「鉄くずについて」の作劇において、役者が演技をするのと同時に遊び(ハンカチ落としや、だるまさんがころんだ、など)の身振りを行うことを演出している点が述べられていた。上演の構造の中で万能感や高揚感の帰結に警戒するうえで、それをずらすために他の境界を用意するというアイデアのように解釈でき、興味深いものだった。

本作品では、モニターに映像が流れ、観客は普段から使われていそうな座布団に座って映像を鑑賞するようになっている。また、座布団の付近には母子手帳が置かれており、これは小林自身のものであると分かる。映像では、母子手帳を部屋の棚から取り出す小林、小林と小林の母がちゃぶ台を挟んで相互にスマートフォンで撮影しあう場面(これは母を撮影している小林のスマートフォンの映像と、小林を撮影している母のスマートフォンの映像が順番に流れる。その際お互いに無言である)、小林が母と会話しつつ母のお腹に手を当てる場面、などから成り立っていた。

スマートフォンでお互いを撮影している映像の「居心地の悪さ」が本作品を展覧会において際立たせていた。「居心地の悪さ」というのは具体的にいうと、スマートフォンでお互いを撮影している際の目線である。お互いを撮影対象としてスマートフォンのカメラを向けているとき、目線は基本的にスマートフォンの画面を向いていて、ときどき一瞬対象自身の方に目をやる、というように動く。この目線は、現在のテクノロジー環境における個人同士の関係性のリアルな姿である。母と子という関係は現代でも家族という強い共同体のなかの強い個人間の関係であり、今でも強い共同幻想/対幻想が存在し、その齟齬は様々な悲劇を生んでいるものと考えられる。その幻想を移行させるプロセスとして、例えば友人同士であればリアルなスマートフォンを通した対面という境界が使われたのだろう。本展ではテクノロジーを通した人間関係の変化を扱うような作品が他に無かったが、共同体の関係意識を変化させるものであることは間違い無く、キュレーションにあるような現代の「神隠し」の想像力にも影響を与えていると考えるべきだろう。

・鈴木知史《Aktion T4/T4作戦》

展覧会ステイトメントに対して言及したとおり、境界的な状態が起きるのは集団においてであり、それは演劇という表現で追求されることが多い。また境界状態に入るという行為がカルトというよりファシズムとの親和性が高いことから注意して議論される。ホロコースト、ガス室というキーワードを持つ作品がこのキュレーションの元に存在することは納得感があった。

作品中の映像とともに流れていた音声に、グリッサンドする高い声の重ねられたものがあった。これは作品ステイトメントに書かれている作家自身の叫び声を再現したものだと講評で述べられていた。筆者はこの声の質感から作曲家ヤニス・クセナキスの合唱作品《夜》を連想した。クセナキスは、確立論などの数学的操作を作曲に持ち込んだ作家だが、その発想の元にはギリシャにおける抵抗運動の活動家としての体験があると高橋悠治は解説している。

ギリシャは戦前から独裁制であった。かれは禁書であったプラトンをひそかに読んでいた。戦争がはじまると、それはマルクスとレーニンにかわった。(「マルクスは部分的にはプラトンだが、ずっと現実的だ。しかし、かれも思想家にすぎなかった。レーニンは同時に哲学者・社会科学者・宣伝家・美学者・法律家をかね、全体として比類ない政治的人間だった。二人といないモデルだ。」)ギリシャの抵抗運動の対象はまずイタリー、つぎにドイツ、それからイギリス(チャーチルはアクロポリスの丘からアテネの町を砲撃するという、ナチ以上の野蛮な行為をあえてした)、最後にアメリカにかわり、1949年にチトーがユーゴ国境をこえたパルチザンをアメリカ側に売りわたすことで終止符をうつ。

そして、収容所での拷問、大量処刑、「再教育」の長い夜がはじまった。1967年の合唱曲「夜」はヨーロッパの政治囚にささげられる。

「1944年12月、アテネのさむい夜、街路での巨大なデモンストレーション、時々の、えたいのしれない、致命的なノイズ。ここから集団という発想、確率音楽が生まれた。」

(高橋[1976:94, 95])

本作品の叫び声は、作家が他者の立場になれず排除してしまうかもしれない可能性に苦しんだ際の再現を行なったものといえるが、それは共同体同士の排除の構造によって引き起こされた事態の想像力まで地続きとなる。

*1 リアル共同幻想論(DIAMOND ONLINE 連載)。『同調圧力に弱い日本人と共同幻想』、『連合赤軍がうらやましい。とても屈折した言い方だけど。』、『間違ってはいけない。信仰は無慈悲で残虐、アンフェアだ』などの記事で、共同体の形成と排除の構造や共同体内部の幻想が空気として支配的になる日本人観がテーマとなっている。

参考文献

NIL『共同体幸福論―変態する坂口恭平』<https://school.genron.co.jp/works/critics/2018/students/xmediaarts/3715/>2019年12月29日アクセス.

吉本隆明(1968)『共同幻想論』河出書房新社.

エリカ・フィッシャー=リヒテ(2009)『パフォーマンスの美学』論創社.

クレメント・グリーンバーグ(2005)”さらに新たなるラオコオンに向かって”『グリーンバーグ批評選集』

林道郎(2007)『絵画は二度死ぬ、あるいは死なない 5 中西夏之(Art seminar series)』ART TRACE.

『着陸と着水:舞踏空間から絵画場へ 中西夏之展』(展覧会図録)(1995)神奈川県立近代美術館.

高橋悠治(1976)『音楽のおしえ』晶文社.