とある存在/混合する境界

田中愛理

他人と自分とのあいだには、透明な層のようなものがあるのだと思っている。その人との間に何らかの関係があると、層は色づく。たとえば私の目には、母親はピンク色に、恋人は黒に、慕っている職場の上司は黄色に見えている。これらの色は私に落ち着きをもたらしてくれるが、常に心地の良い色であるとも言えない。関係が変わると、私を不安に陥れる色に変わってしまうこともあるのだ。

元々大人しく口数が少ない性格だった。中学時代、部活を辞めたことをきっかけに友人が減り、話しかけてくれる相手はいなくなった。一部の同級生から聞こえてくる悪口。それまで同級生たちを各々特徴づけていた色彩は混じり合い、全員が一様に濁っていくのを感じた。全ての同級生に対し、一方的に恐怖と憎悪を抱いた。どれだけ陽気な子たちでも、当時の私には触りたくないヘドロのようにおどろおどろしい存在にしか見えていなかった。

昼食時間は、近くの席6名で机をくっ付けて班で昼食を食べることが学校のルールだった。だが、ある日を境に牛乳担当のクラスメイトは私にだけ牛乳を配らなくなった。クラスメイトと私のあいだにある、白い拒絶。それ以降、私は同世代の自殺願望や自傷癖がある子達のホームページをよく閲覧することになる。自傷や破壊行動で発散される怒りや悲しみ。私はその様子を悶々としながら画面上で見ていた。

教室にいると、半径10m以内には約30名のクラスメイトがいる。それぞれに対して、画面越しでみるサイトのネット住民のように、私との間に一種の層があるように感じた。層の上に重なる嫌悪感と拒絶の色。近くに確かに存在するのだが、遠い。

そんな思春期を過ごしてきた私も、大人になって人との関係をそれなりにうまく作れるようになってきた。それでもなお、試行錯誤の繰り返しである。間にある色を剥ぎ取って、距離を縮めてみたり。あるいは、目の前の色を舐めてみたり。今日も新しい「色の見え方」について考えているのである。