白石さんた
もう一ヶ月も前の事になる。「摩訶神隠し」を見に行った。正直、内容はうっすらとしか覚えてない。写真もメモも残していない。手元にあるのは、怪しいパンフレットだけ。様々な色やよくわからない物体が重なり合っていて、どこに目を置けばいいのかわからない。捉えどころがないデザイン。全体像は曖昧なまま。展示に対する僕の記憶もそんなもんだ。いくつかの断片が混ざり合って頭に残っている。細かいことはほぼ忘れた。困ったものだ。やれやれである。
てなわけなので、とりあえず思い出すことから始めたい。まずは鑑賞体験を再構成する。最初に言っておくと、今からすることは、作品そのものを純粋な審美眼で判定することではない。あくまでも、僕の鑑賞体験の話がメインだ。しかし、だからといって、作品を無視するわけでもない。作品や展示がどのような鑑賞体験を引き起こしうるのか、という作品の可能性について述べるつもりだ。わずかな記憶を頼りに。
入口のベッド、光る蝶々、煌びやかな犬、赤い何か、母子手帳、白黒写真。いろいろなものが置いてあった。だが、そのなかでも一番よく覚えているのは、匂いかもしれない。入口から少し進むと、クリームの匂いがする。田中愛理《とある存在/混合する境界》。アクリル板(?)にクリームが汚らしく貼りついている。どうやら、アクリル板上のクリームを舐めとったらしい。そこにあったのは舐めとられた痕跡と舐めとられそこなったクリームの残骸だ。生々しい見た目とは裏腹に、近づくとクリームの甘い匂いがする。
そのまま進んで、一番奥へ行くと、また別の匂いがする。タバコだ。僕が鈴木知史《Aktion T4/T4作戦》のスペースへ行ったとき、たまたま二人の男性がタバコを吸っていた。僕はタバコを吸わない。非喫煙者にとってタバコの匂いは苦く感じる。クリームの甘い香りと対照的で、タバコの苦い匂いは強く覚えている。そして引き返すと、作品の配置上、もう一度クリームの甘い匂いをかぐことになる。このような匂いの記憶がまず強くある。
[甘い→苦い→甘い]の刺激。「甘い」世界から、「苦い」世界へと踏み入れ、元々いた「甘い」世界に帰ってくる。「甘い」世界に帰還したとき、そのクリームが舐めとられてしまっていることを寂しく思う。甘美な世界は、ほとんどもう無い。クリームはそこにはない。あるのは微かな香りだけ。残り香だけ。
これは人生の比喩なのだろうか、なんて言ってみたい気分になる。zzz《Now fading. Now loading.》は夢をテーマに選んでいる。そのすぐそばにクリーム。甘美な夢の中に眠る「とある存在」、赤ちゃん。そういえば、飴屋法水は田中の作品を見て、幼児は舌で世界を把握する、と言っていた。さらに、その先の小林毅大《We don’t talk much or nothing.》は母と子の物語であり、そのそばに母子手帳が置いてあった。隣の木谷優太『妹と娘』は成長の記録写真だ。そして、その裏に「苦い」世界がある。成長を経て辿り着くのは「苦い」「大人」の領域だ。そこに踏み入れて帰ってくるとき、中央に置かれた二つの作品の意味がはっきりする。大島有香子《そうぞうする理想》と繭見《こどくたちへ》。どちらも死をテーマにした作品。zzz(ベッド)と田中(クリーム)の作品と小林(母と子の記録)と木谷(成長記録)の間に、大島と繭見(どちらも死がテーマ)の作品が配置される。赤子の甘美な世界と成長の世界の間に佇む死の世界。「苦い」世界から「甘い」世界に帰ってくる時には、死を通過しなくてはならない。その死は象徴的なものか、あるいは現実的なものかわからないが。
死の世界を踏み越えて、クリームの匂いを嗅ぐとき、コントラストをなすタバコの匂いも蘇る。喫煙者はタバコの匂いをどのように感じているんだろう、ふと、そんなことを思う。喫煙者にとってもタバコの匂いは苦いのだろうか。喫煙者は、クリームよりもタバコの方が甘く感じるのだろうか。いずれにせよ、僕には全く無知の匂い。タバコを吸ってみたい、そんな誘惑に駆られる。
すぐさま、タバコで黒ずんだ肺が思い浮かぶ。義務教育上、何度も見させられた死のイメージ。しかし今は惹かれている。死への誘惑。あちら側へ。さっきまで想像もしなかった世界。もうクリームの甘い匂いに浸っていた僕ではない、のかもしれない。腕を見ると、番号が刻印されている。《Aktion T4/T4作戦》では、番号のついたハンコを腕に押すことを要求される。その番号は、「苦い」世界にいたことを確かに示す。だからこそ、甘い匂いと苦い匂いが同居しているのだ。
「摩訶神隠し」というタイトルからわかる通り、この展示は彼岸の世界を演出しようとしている。各作品のテーマを見ても、覚醒と夢、自分と他者、生と死、正常と異常など、「こちら側」と「あちら側」を意識した作品が多い。あるいは、「こちら側」と「あちら側」の境界線を意図的に揺らがせようと試みている作品もある。ここに「甘い」と「苦い」を重ね合わせてみても、あながち間違いではなかろう。最終的には、その「甘い」と「苦い」の境界は揺らぎ混ざり合っているのだから。
展示全体のテーマは、出入口付近に置かれたzzzの作品がわかりやすいほど象徴する。回転するベッドが、夢と覚醒の転換点であることは明らかだ。夢を見たことのある人ならわかるだろうが、夢は捉えどころがない。この展示のパンフレットと同じように、目の置き所がわからない。夢はレム睡眠時に見るとは面白い。REM睡眠、すなわちRapid Eye Movement ! 目は動き続けて定まらない。
とするならば、「摩訶神隠し」では、視覚を信用ちゃぁいけないのでは?…というのは言い過ぎだとしても、つい想像を掻き立てられてしまう。視覚以外の感覚を刺激するものが仕掛けられているのだもの。そう、匂い。嗅覚こそ信用しなくては。この展示は「見定める」のではなく、「嗅ぎ定める」ことを要求されているのではないか。嗅覚は五感の中で唯一、大脳辺縁系に直接つながっているので、情動と関連付けをしやすいらしい。匂いは情動を引き起こすことで、リアルな身体へと送り返す。夢に匂いはない。匂いはリアルなものだ。展示内の匂いは作品が示す「あちら側」と、それを感じる「こちら側」を繋ぎ合わせる。現に、今、匂いをもとに「あちら側」に眠っていた展示の記憶を、「こちら側」に再構成しているのであった。
あくまでも、これは僕個人の鑑賞体験だ。NILとマリコムによるキュレーションの意図とはズレるのかもしれないし、僕以外の人は違うように鑑賞したに決まっている。しかし、だからといって、僕の鑑賞体験が間違いだということにはならないし、そもそも僕の鑑賞体験の内容なんてどうでもよい。重要なのは、僕にこのような鑑賞体験を引き起こさせたきっかけだ。匂い、この存在こそが注目されるべきなのである。見えるものに頼ってはいけない。それは展示全体のテーマと重ね合わせることではっきりする。
「神隠し」では理由や説明の付かない「消滅」という現象を扱うために、自分たちの生活空間と認識不可能な空間の間に「境界」を発生させる。
展示の説明にこう書いてあった。ただ、それは本当に「消滅」なのだろうか。消滅し、完全な無に帰するならば、僕たちはその消滅に気づくことができないのではないだろうか。では、ここでいう「消滅」とはなにか。このことについて「摩訶神隠し」は明確に述べている。
「消滅」とは死を通して肉体が消えること、精神や関係性が変容することで自己/他者がいなくなること、人間の知覚として不可視になること。これらはそれぞれ肉体的な死、社会的な死、認識の不可能性と対応している。
3つの「消滅」が示されているが、このテキストにおいて重要なのは3つ目の「消滅」である。この展示では、認識が不可能になること=不可視になること、と定義する。神隠しにおける「消滅」が注目するのは、見えなくなることである。さらに言えば、見えなくなることだけである。だからこそ、「消滅」に気づくことができる。見えなくなったとしても、存在は残る。隠されてしまった存在が「神隠し」の想像力を引き立てる。この想像力の起動こそが、この展示の狙いであったはずだ。
だとするならば、やはり視覚には頼るべきではない。視覚はあくまでも「消滅」に気づくきっかけに過ぎない。そこから「神隠し」を起こすには、視覚以外の方法で存在を感じなければならない。展示に仕掛けられた、「神隠し」への誘発装置に気づかなければならない。存在の残り香に。
あの匂いにどれだけの人が気づいたのだろうか。僕自身、2人の男性がたまたまタバコを吸っていたから気づけただけだ。もし、あそこにあの男性2人がいなかったら、僕の鑑賞体験は全く違ったものとなっていただろう。鑑賞体験などそれくらいてきとーなものだし、そんなてきとーなものを頼りにして書いたこれも、てきとーなものであろう。しかし、偶然嗅いだタバコの匂いが僕に「神隠し」への想像力を引き起こしたように、僕のこのテキストも何かの偶然で誰かの想像力を引き起こすかもしれない。その日まで、あの日見たタバコの煙のように、どこかに漂うことを願おう。どうやら僕は、今なお、タバコに惹かれているらしい。