繭見
寺の娘に生まれたことで、幼い頃から「死」は日常生活に組み込まれていた。「死」とは何なのか深く思考することはなく、寺での法要は幾度となく繰り返される舞台を観ているような感覚だった。
数年前、私は初めて舞台に引きずり出された。妹が「感情の臓器」を蝕む病に侵され亡くなったのだ。私はこのことを受け入れることができなかった。感情は行き場を失い、どこかへ置いてきぼりになってしまった。だから私の心はずっと空っぽだ。向き合うとおかしくなってしまいそうなのだ。最近、親しかった友人も妹と同じ病で亡くなった。私は繰り返し立ちはだかる「受け入れ難い死」を前に、遺された人々の感情の行き場について考えていた。
感情を司る臓器「感情の臓器」があるとするなら、「受け入れ難い死」は臓器を蝕む虫のようなもので、虫達は臓器に寄生する。置いてきぼりになった孤独な感情は、自分のコントロールのきかないところで蠱毒の如く蠢き、増殖し、時にはお互いを食い殺し、蝕んでゆく。そんな感情、虫達そのものと時間を共にすること。つまり共生することが、死を「受け入れる」ことに繋がるのではないか。
ぐちゃぐちゃの感情をよそに、法要は淡々と進んでいく。故人がお墓に入るまでの期間が49日というのも、あまりに短い。気づいた時にはもう彼女達に触れることはできない。抱きしめようと伸ばした手は虚しく宙を掻く。墓石は硬くて、冷たくて、抱きしめても落ち着かなかった。そのお墓すら、住居から離れたところにある人もいる。置いてきぼりの感情達は、収まりのつかないまま、孤独に放り出されている。もっと落ち着くかたちで「受け入れ難い死」と向き合うことはできないのか。「感情の臓器」に寄生する虫達と共生する為の、時間や場所に縛られない「50日目」があっても良いのではないか。
ふと、子どもの頃のお人形遊びを思い出した。ぬいぐるみの柔らかい手触りと、安心感。それらは愛着の対象であり、また人格を持った大切な家族や友人でもあった。そんなぬいぐるみを触るように、「感情の臓器」に寄生する虫たちと過ごせたらーー。
置いてきぼりの感情はぐちゃぐちゃでとても脆いし、崩れてしまう可能性もある。そっと寄り添うように、大切な人に触れる時のように優しく、柔らかく。
ふたりきり、ひとりきりの、50日目を。