「摩訶神隠し」展の二極

春木晶子

芸術作品は、〈言葉〉と同様、〈意味するもの〉と〈意味されるもの〉の転換を発生させる装置である。

繭見の《こどくたちへ》では、布や糸が〈意味するもの〉、繭見がいうところの「感情の臓器」が〈意味されるもの〉であり、鈴木知史の《Aktion T4/T4作戦》では、喫煙室が〈意味するもの〉、ガス室が〈意味されるもの〉である。鑑賞者は、多様な色と材質の布や糸が「感情の臓器」へと、あるいは、喫煙室がガス室へと変転し、次の瞬間にはまた布や糸や喫煙室へと戻る、そうした往還を体感する。

というのは嘘、ではないが、不十分である。

繭見の作品では、布や糸が〈意味するもの〉であるとして、しかし、それによって〈意味されるもの〉は「感情の臓器」である以前に、まずは例えば、ぬいぐるみ、である。そのぬいぐるみが「感情を蝕む虫」であることは「感情を蝕む虫」を知らない鑑賞者にはわかりようもない。一人その存在を知る繭見のステイトメントを読むことで、鑑賞者にとって〈意味されるもの〉であったぬいぐるみが、〈意味するもの〉へと変じ、そこではじめて、「感情を蝕む虫」が〈意味されるもの〉として、その姿をあらわにする。同様に、繭見の言う「感情の臓器」も、その姿は蝕む虫によって覆われているために、鑑賞者はその存在を知ることはない。しかし、それが虫により蝕まれているのだという繭見の語りによってはじめて、感情を蝕む虫の群れが〈意味するもの〉となり、「感情の臓器」という〈意味されるもの〉が立ち現れてくる。

鈴木の作品で、喫煙室を〈意味するもの〉と先に述べた。しかし、それに先立ち鑑賞者は、白い壁や、銀色のダクト、そして灰皿といった〈意味するもの〉を捉えたうえで、〈意味されるもの〉である喫煙室を立ち上げなければなるまい。もちろんこの時、白い壁や銀色のダクト、そして灰皿もまたすでに、木の板、白いペンキ、銀色のアルミ、円柱の鉄の器やたばこや灰などによって、立ち上げられた〈意味されるもの〉である。その銀色のダクトが、喫煙室の排気口であるのみならず、ガス室へとガスを送る注入口という、また別の〈意味されるもの〉へと変換されたとき、それまで〈喫煙室〉と思われていた全体が〈意味するもの〉となり、〈ガス室〉という〈意味されるもの〉を現前させる。

このような、〈意味するもの〉と〈意味されるもの〉の変換、転倒、その往還、その複雑な折り重なりを、鑑賞者は一挙に体験することとなる。個々の作品が備える、その折り重なりの“嵩(かさ)”こそが、鑑賞体験の豊かさに通じる。

本展の「キュレーション」担当であるNILとマリコムによって示された、本展全体のコンセプト、その「神隠し」という語は、芸術作品が備えるこうした変換機能を想起させるとともに、そこに怪しさや禍々しさを付け加えることに成功している。

――「神隠し」とは一体何なのか。それは「消滅」と「境界」を巡る想像力を起動するための装置である。「神隠し」では理由や説明の付かない「消滅」という現象を扱うために、自分たちの生活空間と認識不可能な空間の間に「境界」を発生させる。自殺も失踪も怪奇現象も、かつては「神隠し」を通して認識され、扱われる対象であった。

翻って現代日本に生きる我々は、「神隠し」を素朴に信じることはできない。どのような事件や事故や現象も、全ては科学的な事実に裏付けられた/られるべき現実だ。其処は此処であり、虚構は現実であり、人間こそが化け物の正体なのである。

斯くして「境界」を失った我々は、「消滅」に対しても合理的かつ形式的な理解の元で向き合うことになった。しかし、それは同時に「神隠し」にまつわる想像力を封印するとともに、「境界」を通した逃げ場を失うこと、もしくは「消滅」との付き合い方について思考停止することを意味する。

本展覧会では現代日本において失われた「神隠し」の想像力を再起動することで、いかにして「消滅」の手触りを記憶し続け、「境界」の向こう側と関係を結び直すことができるかについて考えてみたい。――

芸術作品が〈意味するもの〉と〈意味されるもの〉の変換の往還、その複雑な折り重なりを、発生させる装置であるのと同様に、「境界」は、〈見えるもの〉と〈見えないもの〉、〈既知のもの〉と〈未知のもの〉、とを同時に発生させる磁場であり、「神隠し」を単なる「消滅」と片付けるのではなく、「消滅」を契機に「境界」の向こう側との関係を結び直すこととは、その往還を体感することにほかならない。すなわち、「神隠し」の想像力を再起動することとは、芸術作品の備える変換機能によって先の“嵩(かさ)”を生み出すこと、そしてそれを感じること、と言ってよい。

先に挙げた二つの作品は、その“嵩(かさ)”がとりわけ大きい。そのうえ、両者は、「神隠し」という言葉が喚起する怪しさ禍々しさをも備えている。よって両作品は、本展を象徴する作品であると考えるが、わたしがこの文章でこの二つにこだわるのは、そのためだけではない。類似の構造を備える二者の様相は、随分と異なる。それどころが、明確な対称を示している。

その対称は、山崎正和のいう、人類の二つの造形意思を思い起こさせる。山崎はその著書『装飾とデザイン』で、人類の造形意思は、二つに引き裂かれているという。すなわち、一方に、普遍性-世界の統一を目指す造形意思があり、その対極に個別性-個物の氾濫のへと向かう造形意思がある。前者の傾向が強いほどそれは「デザイン」に、後者の傾向が強いほどそれは「装飾」に近づくこととなる。

二つの作品がそれぞれどちらの極に向かっているかは、言わずもがなであろう。材質、フォルム、色彩、すべての面で、繭見の作品は多様であり、鈴木の作品はシンプルである。個物が氾濫し分裂を引き起こす前者と、統一された明快な空間が現前する後者。対立する造形の極へと向かう二つ作品はしかし、いずれも、それぞれの在り方で、ある種の暴力をあらわしている。一方に、有象無象の虫に感情を蝕まれる混乱という暴力があり、もう一方に、強引な線引きによって運命を決されるという画一化の暴力がある。

二者の作品があらわにするのは、造形意思の二つの極だけではない。暴力、その一言であらわすことのできない、抑圧や苦しみを伴う行為や感情、その二つ極までをも、両者の対称は、暴く。奇しくもそれは、NILが本展のステイトメントで述べている、ある対称とも重なり合う。NILは、かつてあった禍々しさを備える「境界」と、科学的な裏付けによる合理化を優先する今日の社会という、二つの〈おそるべきもの〉を対峙させる。本展の二つの作品は、まさしく、NILが設定したその対称に沿うように、対称を示しつつ拮抗し、本展を牽引していた。